【バス旅DATA】
路線:國光客運1818(台北西A站→中壢車站)、桃園客運・慈湖線(桃園客運 中壢總站→慈湖)
乗車ルート・運賃:1818:台北→中壢 75元
乗車時間:1日(観光時間含む)
※運航時間・運賃・路線は変更される場合があります。
【バス旅ポイント】
①言葉の問題は『台灣好行』のパンフレットが解決!?
②ほかの老街とはひと味違う生活感ある『三坑老街』!
③蔣介石だらけの『慈湖紀念雕塑公園』はある意味見もの!
⇒ 台北市バスの概要
『台灣好行』パンフレットの威力は偉大
桃園国際空港に向かうとき、國光客運の空港行きバスを利用することが多い。バスターミナルのA棟でバスを待っていると、隣に中壢(ジョンリー)行きのバスがやってくる。
中壢──。
訪ねたことがない街だった。A棟に乗り入れるバスは、台北の近郊行きだ。
『台灣好行』のパンフレットを見ていた。慈湖(ツーフー)線というコースが出ていた。その基点になるのが中壢だった。
記憶がつながった。
中壢までのバス代は75元だった。
途中、高速道路に乗り、空港の手前で降りた。すぐに中壢の街に入っていく。飲料メーカーの黒松の工場が見える。そこから10分。道が狭い市街地のなかの國光客運のターミナルにバスは止まった。下町風情が漂う街だった。中壢は工場地帯のただなかにある街かとも思えたが、そうでもない。街並みは古い。しばらく滞在したくなるような街だった。
「慈湖線は……」
國光客運のバスターミナルでバス乗り場を探そうと、『台灣好行』のパンフレットを広げた。すると、近くにいた國光客運のスタッフから声をかけられた。そして、「隣の建物だ」と指差した。言われるまま移動すると、そこは桃園客運のターミナルだった。すると、今度は桃園客運のスタッフが、こっちだ、と手招きする。僕は視線を指に向けた。手には『台灣好行』のパンフレットを握っていた。
平日だったため、慈湖線は1時間に1本の割合だった。時間が少しあった。待合室のベンチで待つことにした。膝の上に、『台灣好行』のパンフレットを置いていた。目の前をバス会社の制服を着たおばさんが通りかかった。パンフレットを一瞥すると、「こちらへ来なさい」と事務室に入れてくれた。その女性は、引き出しのなかから、慈湖線の1日乗り放題切符を出した。1枚100元。それを支払うと、「あっ、そうそう」といった様子で、詳しい慈湖線のパンフレットを手渡してくれた。そこには時刻表も載っていた。
國光客運のバスターミナルに着いてからの時間を振り返る。僕はひと言も発していなかった。スタッフがパンフレットを目ざとく見つけ、案内してくれる。『台灣好行』のパンフレットは偉大なパンフレットだった。
おそらく多くの観光客が、このパンフレットを手に慈湖線に乗るのだろう。このパンフレットさえ持っていれば、言葉ができなくても問題はなかった。
台湾のなかの客家エリアを進むバス
バスは中壢市街を30分ほど進み、やがて水田が点在する住宅地に入った。最初のバス停で降りた。『客家文化館(ハッカウェンファグァン)』である。
慈湖線を選んだ理由のひとつだった。
今年(2016年)、台湾では総統の選挙が行われ、民進党の蔡英文(ツァイインウェン)が、台湾初の女性総統に選ばれた。彼女は客家(ハッカ)だった。彼女の父親は、台湾南部の枋山(ファンシャン)出身である。
昔から客家には興味があった。東洋のユダヤ人ともいわれる客家は、アジアではその人口以上の存在感を見せていた。中国の鄧小平、シンガポールのリークワンユー、タイのタクシン、フィリピンのコラソン・アキノ……政治家に客家が多いからだろか。
客家はもともと黄河流域に暮らしていた漢民族である。彼らは南下し、福建省を中心としたエリアに住むようになる。福建省は豊かなエリアではない。海外へ移住する人が多かった。客家もその流れのなかで中国を離れる人が多くなる。その末裔がアジアの国々で注目されるようになっていった。台湾の客家も移民という枠組みのなかにいる。明から清の時代にかけ、福建省から多くの漢民族が台湾に移り住んだ。彼らが本省人といわれる人になっていく。客家も福建人と同じように台湾に移り住んだ。
しかし福建人と客家の間にはある種の差別構造がある。福建省に移り住んだ客家は、豊かな平地に住むことができなかった。貧しい山のなかで地盤を築いていく。そこから生まれた質素な気質を福建人は嫌う。
たとえば客家料理。豚の内臓をよく使うが、それは肉を売り、自分たちは内臓を食べるという客家の発想である。それを福建人はケチだと揶揄する。土地に頼ることができない客家は、勉学に励み、役人や政治家になっていく。そのなかから優秀な政治家が生まれてくるのだが、それが福建人の癇に障る。
しかし台湾の人口の2割を占めるともいわれる客家は、台湾社会にそれなりの影響力をもっている。客家語のテレビ局まであるほどなのだ。
台湾のなかで客家が多く住んでいるのは、蔡英文の父親の出身地である台湾南部、そして桃園や新竹といったエリアだった。慈湖線は、客家人口が多い地域を走っていた。
水が湧き出る三坑老街は客家の人たちの老街だった
バスを降りると、目の前に『HAKKA』という文字をくり抜いた看板があった。建物はその奥だった。しかし僕は誤解していたようだ。館内には客家の暮らしや歴史の展示があるのかと思っていた。しかしこの施設は、客家の人たち向けの文化館だった。図書館、イベントホール、資料館など、内容は充実していたが、日本人にはレベルが高すぎる。
入口脇には、中規模のイベント会場があった。そこでは客家の踊りや音楽が披露されるらしい。その日程に合わせて訪ねるといいのかもしれない。
しかし客家の暮らしは、その先の三坑老街(サンコンラオジェ)に広がっていた。ふたつ先のバス停で降り、運転手に教えてもらった道を進んだ。
「この先に老街?」
と不安になる田園地帯が広がっていた。老街というのは、台湾に残った古い街並みのことをいう。これまでもいくつかの老街を見てきたが、どれも街なかにあった。
10分ほど歩いただろうか。道端に「洗白黒(シーバイヘイ)」という水場があった。地下から水が勢いよく流れだしている。三坑とは、炭坑ではなく、水を得るための坑だった。「洗白黒」は、かつて、この一帯に暮らす人々の洗濯場だった。湧きでる水は飲むこともできる。コップにすくって飲んでみた。柔らかい味わいが口のなかに広がった。
三坑老街はそこからはじまっていた。道幅3メートルほどの道に沿って、木造の建物が連なっていた。2階まである立派な建物だ。
観光客はほとんどいなかった。そのためかもしれないのだが、生活感のある老街だった。2階建ての家はいまでも商売を営んでいる。周辺の人々が買い物にやってくる老街なのだ。
1軒の店先に座る老人が穏やかな笑顔を送ってくる。のんびり流れる空気。土産物屋ばかりが並ぶ老街よりも僕好みだった。
老街の突き当りには廟があった。そこまで数百メートル。ゆっくりと歩いた。ふと横を見ると、1軒の食堂があった。渡されたメニューを見ると、みごとなほどに客家料理が並んでいた。
客家小炒、客家茄子、青葉豆腐湯……。入口に客家料理店と書いてあるわけではなかった。この老街には食堂が1軒しかない。観光客ウケを狙った店ではなく、街に暮らす人たちが、あたり前のように食事をとる店なのだ。だから料金も安い。1品100元から150元といった感じだ。
それが客家料理。
ここは客家の老街だった。
お荷物になった蒋介石像訪ねる中国人観光客のねじれ
平日は1時間に1本の割合である慈湖線。客家文化館で1時間、三坑老街で2時間を費やしてしまった。時刻表を見た。慈湖で1時間を確保するには、次のバスに乗るしかなかった。途中の石門水庫、大渓老街を飛ばし、慈湖をめざす。
終点の慈湖は、今日乗った慈湖線沿線のなかでははじめての観光地だった。駐車場には4〜5台のツアーバスが止まり、大陸からやってきた中国人観光客が列をつくっていた。
慈湖には蒋介石の世界が広がっていた。かつてここを訪れた蒋介石が、生まれ故郷の風景に似ている……と気に入ったことが発端だった。晩年、蒋介石はここで暮らした。そして彼の遺体はここに安置されている。『慈湖陵寝(ツーフーリンチン)』と呼ばれる。今回はそこを訪ねる時間はなかった。
中国人観光客は、『慈湖陵寝』を見学し、『慈湖紀念雕塑公園(ツーフージーニィェンディァォスーゴンユェン)』を歩くコースになっているようだった。
蒋介石の墓を大陸からの中国人たちが訪れる──。しばらく前の台湾と中国の関係では考えられないことだった。大陸での国共内戦に敗れ、蒋介石は台湾に逃れた。しかし国民党を率いる蒋介石は大陸奪還をめざしていた。実際、金門島で、国民党と中国共産党は衝突してもいた。台湾と中国は敵対関係にあったのだ。
しかし時代は大きなうねりを迎える。台湾では民進党が政権を握り、台湾独立の空気すら帯びてくる。中国は自らの主張を崩すことはできない。台湾はあくまでも中国の領土だった。蒋介石の狙いもまた、ひとつの中国だった。それは国民党が中国をとり戻すことなのだが、そこで大きなねじれが生まれる。台湾独立よりも、中国奪還を叫び続けてくれる蒋介石のほうがはるかにくみしやすい……と。そのなかで、蒋介石を評価する動きが、中国のなかで出てくるのだ。
それが中国人の慈湖観光につながっていた。台湾と中国の関係は幾重にもねじれていた。
自由に入ることができる『慈湖紀念雕塑公園』を歩いてみることにした。ここもまた、ねじれが浮きでていた。園内には300体近い蒋介石像が置かれていた。胸像、立像、馬に乗った像など形は違うが、ほとんどすべてが蒋介石だった。ほかには、息子の蒋経国像をひとつみつけただけなのだ。
園内を歩いていると気持ちが悪くなってくる。おそらく同じ型を使ったのだろう。どれも同じ顔をしている。そのなかを歩かなくてはならない。
しかしこの公園ができあがる経緯が、いかにも台湾だった。
蒋介石が台湾で権力を握っていた時代、盛んに像がつくられた。公の場所や学校などに建てられていった。ちょうど中国で毛沢東像が次々に建てられた時代である。
しかしここでも時代が大きくうねる。本省人の李登輝が総統になり、その後、民進党の陳水扁が総統になっていくのだ。蒋介石が強い権力を握っていた時代、台湾の人々は、その権力を怖れ、政権におもねるように蒋介石像を建てていった。しかし政権が代わり、役所や学校に建てた蒋介石像が厄介物になってきてしまったのだ。
かといって蒋介石像を壊すこともできなかった。やはり台湾人である。そこで助け舟になったのが、『慈湖紀念雕塑公園』だった。ここに蒋介石像を展示するというプランに、台湾人は肩の荷をおろせると感じたのだろう。
民進党が政権をとった2000年以来、次々に蒋介石像が持ち込まれるようになった。形は『慈湖紀念雕塑公園』への寄付である。
なんだか滑稽にも映るのだが、この公園は、言ってみれば、蒋介石像の墓場だった。
息が詰まってきてしまった。30分ほど歩き、数十体の像を眺め、早々に公園から出てきてしまった。中国人のように、像の前で記念撮影をする気分にはなれない。
公園を出ると、中壢のターミナルに戻る、最終のバスが待っていた。
【施設データ】
◆客家文化館
入館料:無料
開館時間:8時30分〜17時
休館日:月、祝
◆慈湖紀念雕塑公園
入場料:無料
開園時間:8時〜17時
休園日:無休